正月のゴミステーション

正月のゴミステーション

世間は既に仕事始め。ゴミステーションも稼働し、パンパン状態です。「ご近所のお正月もこれで終ったのだ」と思います。正月仕様の容器などかさばる包装も多いし、食卓に上る食品の品数も増えるので、ゴミの多さも当然でしょう。人は年の初めからゴミを投げる事に躊躇しません。

去年、神棚と仏壇を撤去する際の祈祷を請け負いました。その際に、色々と処分する物があるというので見せて頂きました。その中に桐箱が一つ。中を見せて頂くと双眼鏡が入っていました。聞くと、中国で戦死したご先祖の遺品で、遺骨の代わりに届いたそうです。24歳だったそうです。他には今では珍しい三界万霊燈もあり、その方の戒名も書かれていました。戦地からやっと帰ってきた遺品です。そのまま手元に置いて下さいと説得しました。

正月のゴミと戦死者の遺品を一緒に考える事は出来ませんが、捨てて差し支えないモノとそうでないモノがあります。人目を引くためだけで最初から捨てられる事を想定した華美な包装も問題ではありますが、人は捨てる事に無感覚になっているようです。

人には、求めたいという渇望するものと、逆に要らない・遠ざけたいという真逆の煩悩があります。前者だけを煩悩と捉えがちですが、嫌なものから目を背けたい、忘れたいという感情も煩悩です。人の好き嫌いという感情も極端になると煩悩となるのです。

断捨離とは流行りの言い方ですが、極端な廃棄はお勧めしません。戦死した方の遺品など先祖との繋がりを断つ事は、自分自身のアイデンティティーも失いかねません。SDGsも一世を風靡しておりますが、生かせるものは生かすという使い方は仏教的な考え方でもあります。

パンパンのゴミステーションを目の当たりにして、人間の煩悩とSDGsに思いを巡らせた朝でした。